ケースビネット
手術室で麻酔の緊急コールが鳴り、一人の麻酔専門家がすぐに現場に駆けつけた。その手術室では耳鼻咽喉科(Ear, Nose and Throat; ENT)の手術が進行中であった。到着して、彼女はすぐに状況を確認した。患者は全身麻酔中でENT手術用の喉頭鏡が装着され、麻酔器に対し 90度の向きになっている。そして、バイタル サインは以下であった。パルスオキシメーター84%、血圧80/53mmHg。人工呼吸器の警告音が鳴っており、画面の上部に「吸気圧高値」のアラームが点滅していた。当時担当の麻酔専門家は、ピーク吸気圧が急速に上昇し、この数分間で換気が困難になったと説明した。患者は喘息の既往があり、気管支拡張剤と麻酔薬の増量にもかかわらず気管支痙攣は持続した。別の麻酔専門家が聴診し、喘鳴や呼吸音自体も聞こえないと報告した。同時に、別の同僚がエピネフリンを準備した。緊急コールに応答した麻酔専門家は、気管チューブから麻酔器までの回路をチェックし、さらに患者の口腔内を調べたところ、気管チューブのキンクを発見した。彼女がチューブの曲がりを緩めることで、甲高い人工呼吸器のアラームが止まった。酸素飽和度が速やかに上昇し、彼女の同僚達は感謝と恥ずかしさの両方の表情を示した。どうして彼らはその単純な問題を見落としたのだろうか?他の緊急対応者は、当初の担当者をサポートすることに懸命で、気管支痙攣の鑑別に疑問を抱かなかったと述べた。担当者は、既往歴、タイミング、および臨床徴候から、気管支痙攣が起こっているに違いないと盲信してしまったと述べた。背後にある状況ではなく新しい情報を取り入れた二人目の麻酔専門家は、問題を正しく診断することができた。ここに登場する麻酔専門家は知らず知らずのうちに、認知バイアスの影響を受けていたといえる。
背景
認知バイアスとは、臨床家が独自の主観的現実を作り上げることにより、ある状況に対する認識を変えるというバイアスである。「確立された規範または判断の合理性からの逸脱の体系的なパターン」ともいえるが、これが自分の行動に影響を与え、自分の慣行の変化につながる可能性がある。8 認知バイアスの結果としての心理的逸脱は、医療専門家だけでなくすべての人間に生じるものであり、個人ベースの個別化医療や公衆衛生政策で過誤を引き起こし、全人口に影響を与える可能性がある。9
医療におけるエラーに対する認知バイアスの影響は、患者安全に影響を与えることが以前より理解されてきた。10,11 認知バイアスは、麻酔専門家を含む臨床家の意思決定に重大な影響を与え、患者の命を危険にさらす可能性がある。11,12 認知バイアス自体とその臨床への影響をまず理解することで、その影響を軽減し、患者安全性を向上させることができる。
この提示されたケースでは、アベイラビリティバイアスやバンドワゴン効果など、いくつかの認知バイアスが働いていた。アベイラビリティ バイアスとは、追加のデータを得ずに手元にある情報のみに基づいて意思決定が行われる心理的現象を表す。13バンドワゴン効果は「診断への勢い」としても知られており、これは診断または決定が一度なされると、代替案を検討できなくなってしまうことを指す。14 麻酔専門家に関わる一般的なバイアスを示す(表1)。12,15
表 1:麻酔科学および周術期医療で発生する可能性のある認知バイアスの抽出。各タイプの説明と例を含む。
エラーに対する認知バイアスの影響
周術期に発生するエラーは認知バイアスに起因することが多く、研究によると、術後合併症の32.7%が少なくとも部分的にバイアスの影響を受けていることが示されている。16 特定のタイプの認知バイアスは、麻酔ケアのエラーに寄与する要因として特定されている。たとえば、確証バイアスは自分の現在の考えに反するような追加情報を敬遠し、自分の意見を支持する情報を認め求める行為である。食道挿管で悪い転帰をたどった症例の研究では、17 胸郭の動きの観察、胸部の聴診、気管チューブの曇り、声帯を通過するチューブの感知などの兆候が挿管が成功したという臨床家の確信を「確認」するために使用され、一方でチューブの気管内留置の確認法として確立したカプノグラフィは無視されたことを指摘している。18
さまざまな要因が、医療専門家の認知バイアスに寄与している。これらの要因は一般に、医療専門家、患者、およびシステムまたは外的要因のそれぞれに影響を与えるものに分類される(表2)。たとえば、認知の過負荷、疲労、睡眠不足などの要因は、医療従事者に悪影響を及ぼし、認知バイアスのリスクを高め、エラーや患者安全を損ねることにつながることが示されている。19 さらに、フレーミング、個人的な好み、感情、フィードバック、損失回避など、さまざまな不合理な要因が麻酔科学における臨床的意思決定に影響を与える。20
表 2:患者、臨床家、またはシステムの設計に直接起因するものを含む、麻酔科学における認知バイアスを引き起こす可能性のある要因。これらはすべて、自信過剰や損失回避などの外的要因の影響を受ける可能性がある。
認知バイアスの軽減
できる限り認知バイアスに起因する診断エラーを減らすことが重要である。効果的な認知への介入には、主に下記のカテゴリーがある。1) シミュレーション、フィードバック、教育などのツールによる知識と経験の向上、2) 内省的実践やメタ認知レビューなどのツールを利用した推論と意思決定スキルの向上、および3) -電子医療記録や統合された意思決定支援などによる意思決定支援の向上。21
認知バイアスを軽減するための最も重要なアプローチは、医療関係者に認知バイアスに関連する因子を認識させることであろう。それは、学習教材、学術出版物、教訓、およびシミュレーションを使用することによって達成されるだろう。22 たとえば、注視エラーは、状況の1つの側面に焦点が当てられ、他のより関連性の高い情報が無視されるといったエラーである。22 これはアンカリングバイアスによって引き起こされる可能性があり、最悪のシナリオを除外している可能性の認識、最初の仮定が間違っている可能性があることへの理解、問題の最終的な説明としてアーティファクトの存在を考慮すること、現在のチームメンバーが至った結論の使用を避けること、などの戦略につながる潜在的なエラーを認識することで回避できるかもしれない。22 とはいえ、バイアスと闘うには意識だけでは十分ではない。過去の文献では、「バイアスの盲点」について述べられている。これは、人がバイアスを避けられるという誤った感覚を経験する現象であり、認知的洗練度が高い人により起こりやすいとされている。20
認知バイアスを軽減するために採用される可能性のある戦略は、多くの場合、臨床家に個人的に影響を与える介入と、体系的またはシステム全体で実施される介入に分類できる(図 1)。個人レベルの戦略には、トレーニングと教育、マインドフルネス技術、および代替案の慎重な検討が含まれる。23 体系的な戦略には、チェックリストの使用、チームベースの意思決定、および電子医療記録の統合プロンプトなどの臨床意思決定支援システムの使用が含まれる。23 航空業界で使用されているものをモデルにした意思決定チェックリストは、手術室での有害事象のリスクを軽減する。22 シミュレーション下では、チェックリストを使用すると、学習効果や疲労の影響を調整しても、危機管理の重要な手順を順守できないことが6分の1に減少することが示された。23
残念ながら、これらの戦略のすべてに限界がある。客観的なエビデンスが不足しているのである。情報収集をいつ停止できるかを決定するように設計された停止と継続に関する規則には、その使用を裏付ける公開されたエビデンスはない。同様に、最終診断を下す前に考慮しなければならない鑑別診断を検討する「見逃さない代替法」の使用についても、それを支持するエビデンスはない。さらに、診断の洞察力を改善するためのそのような戦略の有効性と、治療または患者の転帰との間には隔たりがあるようだ。たとえば、ベストプラクティスの遵守を強化し、投薬ミスを減らすなどの臨床意思決定支援システムが実装されているにもかかわらず、それらが臨床診断を改善するという証拠はほとんどない。23 臨床意思決定支援システムに関する多くの研究では、臨床診断への影響を調査しているのではなく、臨床検査や画像検査のオーダーを促すなどのエンドポイントが新しい介入によって達成されるかを評価する指標に特に焦点を当てられており、患者の転帰への影響に関する研究が限られているようだ。24
麻酔科学における認知バイアスとの闘い
私たちは、麻酔科の診療において日常的に認知バイアスを認識して対処するための2段階のアプローチを提唱している。最初のステップは、教育と意識付けである。麻酔専門家が、多種のバイアスが存在し患者ケアに影響を与える可能性があると認識することは非常に重要である。さらに、バイアスは患者の変化の検出、病状の診断、治療において医療従事者に影響を与えることが多いということを覚えておく必要がある。認識だけではバイアスと闘うのに十分とは言えないが、バイアスに対処し患者ケアと安全への影響を認識できる戦略を立てるためには重要な最初のステップである。
次に、個人レベルとシステム全体の両方でバイアスと闘うことが重要であるが、個別化された介入が必要になることがよくある。解決法は普遍的なものではなく、さまざまな機関、チーム、状況に合わせて個別化する必要がある。たとえば、バンドワゴン効果は、同僚と術中に相談することである施設では首尾よく対処できる場合がある。一方で人員が限られている小規模な施設では、他の周術期プロバイダーと協力し、チェックリストや認知支援を使用することで、「診断への勢い」をよりうまく回避できる可能性がある。部門および機関レベルでは、認知バイアスの有害事象に対する影響を、それぞれの有害事象のレビューで検討する必要がある。麻酔グループにおいては、研修生と臨床家が参加し認知バイアスが発生する場面とそれに対処する戦略を実際に行う教育シナリオを作成しシミュレーションをすることを検討する。シミュレーションは、チームベースの状況認識をモデル化し学際的なコミュニケーションを促進する点で特に有益である。これらは、特に困難な状況で認知バイアスと闘うための重要なツールとなる。25 周術期医療の実践において認知バイアスを回避する普遍的なアプローチはないが、ビジランスとよく練られた介入を組み合わせることで麻酔サービスの質と患者安全性を向上させられるだろう。
患者ケアに悪影響を及ぼし医療ミスの原因となりうる認知バイアス、麻酔専門家はこの影響を受けやすいのだ。麻酔科学では、まれにしか発生しない緊急事態に備えて多くの準備を行うことが求められる。認知バイアスを回避するために必要な精神的および体系的な準備を怠ってはならない。麻酔専門家は、認知バイアスを認識して対処するためのトレーニングを受ける必要がある。患者安全性を向上させるために、認知バイアスと闘うための戦略を個人レベルと施設レベルの両方で実施しなければならない。
George Tewfik, MD, MBA, FASA, CPE, MSBAは、ニュージャージー州ニューアークのRutgers New Jersey Medical Schoolの麻酔学准教授である。
Stephen Rivoli, DO, MPH, MA, CPHQ, CPPSは、ニューヨーク大学グロスマン医学校の麻酔学助教授である。
Monica W. Harbell, MD, FASA は、アリゾナ州フェニックスのMayo Clinicの麻酔科助教授である。
著者らに開示すべき利益相反はない。
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